世界が旋律に包まれていた。
 天井の高いホールの隅々までに音色が響き、届き、共鳴していた。
 着席する観客ばかりではなく、舞台袖(ウィング)で経緯を見守る演出監督も、若しくは一端を担う演奏者まで、それら一音一音に耳を欹て、全身を音楽に委ねていた。
 その全てを操るのが、その魅力を最大限まで引き出すのが彼の役割だった。
 檀上の中央、オーケストラの視線が集う場所に彼は立っていた。ライトを受けて靡く銀灰色の髪、強弱と共に抑揚する深紅の瞳、指揮を執るしなやかな指先。真っ新な五線譜にペンを入れたのも彼だった。
 つまり、彼によってこの世の音楽は作られていた。

 歌い、溢れ、流れ、静まり、膨れ上がる、弾ける。
 嵐のように、夕凪のように、御使いのように、星空のように、愛を謳う鳥のように。

 目蓋を閉じる必要もなく、楽譜の上に拡がる世界を描き出していく。
 最後の音が人々の表皮を掻いた。重音がゆるやかに中空へ溶けて行った。それによって誰もが感嘆の息を吐き、観衆は席から立ち上がり、万雷の喝采を以て彼を讃えた。
 檀上で振り返る。賛美はいよいよ強くなる。
 そうやって彼は、ひとつの世界を奏で尽くしていたのだった。

 舞台を降りた彼の元に多くの演奏者が集っている。口々に感謝を述べ、握手を求め、彼もまた情感のまま息を整えながら各々に応えていた。
「お疲れ様でした、マエストロ」
「その呼び方はよしてくれ」
 恐縮しながらも微笑む。それで余計に演奏者達は色めき立つが、珍しいことでもなかった。
 裏手へ回れば演出家が、所縁のある音楽を志す若者達が、次々と彼を待ち構えている。
 壁に並ぶポスターに刻印されている、指揮者であり作曲者の名前。
 素晴らしく完成された夜だった。
 このホールでの公演は数え切れぬまでに達していたが、以前に増して音が良く広がった。音楽家としての探求心、指導者としての矜持が存分に満たされていた。
 しかし、ただ一点、それだけがいつも彼の喉奥に張り付いて息を詰まらせようとする。
 呵責にも葛藤にも似ている、言い知れぬそれから逃れようと演奏を続ける、それが矢面に立つようになってもう久しい。
 その折だった、ひとつの視線に気づいたのは。
 興奮冷めやらぬ通路より離れた先、階段の上、手摺と踊り場の合間。
 そこに佇む少女の姿が目に入って、足を止めた。
 ――あの娘は。
「どうかしましたか?」
「ああ、いや」
 コンサートマスターの言葉に首を振った。もう一度、目を遣れど既に姿はない。
 集客数のあるホールだ、顔まで分かるはずはなかった。それでも必ず同じ席に座っている褐色の髪。赤よりは橙に近い、目の覚めるような彩度。
 きっと彼女だ、と思った。よく似合うマリーゴールドカラーのドレスも、席に着いていた時のものと同じだった。
 何かを伝えようとしたのか、それとも単に遠巻きに観察していただけなのか、蜂蜜色の両目が彼を静かに眺めていた。
 それでも、楽屋の前で待っていた副手の姿を見る頃には、違和感の奥底に沈んでしまったが。

「今夜も花束が届いていますよ」
 盛況を修めた夜にはありふれた光景であり、同時にこのような日には決まって贈答品が届くものである。
 ゆえに下働きの彼らにはその重要さは判るべくもなく、マエストロの顔色が変わったのも気付くことはできなかった。
 ジニアとスイートピーの花束だった。その中に白いカードが埋もれている。前以て宛名を確かめたのだろう、青年は何事もなく相槌を打った。
「熱心なファンですね」
「そうだな」
 眩暈とも吐き気ともつかないものに苛まれながら、精一杯笑顔だけは維持して。
「……嬉しいことだ」
 青年の手首でアラームが鳴る。促されて踵を返そうとする、その最中でもう一度彼を仰いだ。
「今夜はささやかな祝宴を予定しているのですが」
「いや、私は遠慮しておこう」
 穏やかに首を振って、その花束を助手に引き渡して、扉の中へと消えて行く。
 隠しきれなかった焦燥に首を傾げながら、その場に残ったもう一方、比較的付き合いの長い彼が代わりに肩を竦めた。
「先生はお酒を嗜まれないんだ」
「そうなんですね、失礼しました」
 あの青ざめた顔色がそれだけでないと知りつつ、少しだけ首を傾げる。
「それでも以前なら参加だけはしてくれていたんだが……余程ご多忙と見える。せめて休息は充分に取ってほしいものだ」
 花束の中から、メッセージカードだけが姿を消していた。



 会場の裏手は飲食店や露店が並び、繁華街から離れているとはいえ、夜でも人足は絶えず賑わっていた。
 しかしそれは大きな通りに沿ったものであり、ひとつ小さな路に入り込めば忽ち喧騒や街灯からも遠ざかってしまう。
 静かな夜だった。暗がりで野良猫の眼が光ることもなく、誰の靴音さえ聞こえない。
 響いているのは唯一、荒く乱れた呼吸音。
 まるで乾いた喉に喘ぐように、肺に達しない酸素に焦れるように。
 或いは、脳が目の前の現実を拒絶するように。

 震える肩で息をしていた。
 闇の中に彼の灰銀の髪が浮かび上がっていた。指揮台の上で纏っていた衣装のまま、手袋だけは外していた。その両手で握りしめている長いもの、それを路地の外から差し込んだヘッドライトが照らして去っていった。十字架だった。十字の短剣だった。刀身が鈍く赤黒い色で濡れていた。それが今、柄を伝って指先、手の甲へと、そこから重力に沿ってひた、ひた、足元へ落ちていく。
 靴の爪先にかかって同じ色の水溜りが広がっていた。
 それは今もゆるゆると面積を広げ、その水面に雫が落ちる度に王冠を作って吸い込まれていく。
 それら全てが、石畳の上に俯せに寝転んでいる男の脇腹から発現していた。
 息を荒げる彼とは正反対に、その男からは呼気どころか、もう心臓の音ひとつ聞こえなかった。

「それは誰?」

 背後から声がして、力なく振り返る。
 小路の入り口に少女が立っている。見たことのある顔――覚えのある髪色、夜の帳にも鮮やかなオレンジ色。ドレスも自分を見据える蜂蜜色もそのままに。コンサートホールで、廊下の隅で逢って以来の。故に、彼の唇から静かに言葉が零れる。
「……分からない」
 久々に発したようにざらざらと掠れて、思考共々、揺振れるまま小さく頷いた。
 少女の視線が足元の男を嘗めている。それに導かれて自らも眼差しを這わした。
 赤黒い液体に沈んでいく長い金の髪。青白い腕。どんな顔付きをしているのかさえ、そのままでは確かめられない。
「分からないが、私は彼を殺さねばならない」
 独白の合間に、すぐ間近に少女が寄っている。
 それでも何故か彼は、この少女までを“どうにか”しようという気にはならなかった。
 ただ唯一。
「君は……誰だ」
 それに少女は哀しげに口の端を持ち上げる。
「ひどい話ね。わたしのことも貴方のことも、彼のことさえ覚えていないのに、その殺意だけは残っている」
 少女は目を細める。今にも倒れそうな顔をしているのに、手に握るそれだけは離さない様子に。
「それとも、正しいのかな。ここにあるのは全部偽物だから」
 少女が、傍らに落ちていた封筒に気付いた。拾い上げる。箔押しのメッセージカードだった。
 中にはたった一文だけ。
「貴様、は」
 一瞬前とは異なる震えを持った彼の言葉。拒絶だった、憎悪だった。それに空気が揺らいだ。いつの間にか、路地の入口にまた別の人影がある。
 逆光で顔は見えず、彼の金の髪だけが輪郭を保っている。手にした指揮棒が真直ぐ彼を示している。
「大丈夫。キャスター」
 淡々とした少女の声に誰かが腕を下ろす。それでも決して意識を外さない。鼓動、呼吸音、心音、それら全てを捉えて、彼の動向を見張っている。我が主人の身の保障を。
 少女の小さな掌が彼の指先に触れる。十字架を握ったままの。死の影に震える腕の。
 顔が上がった。炎を映した目、闇に染まる瞳。それに小さく頷き返した。
「こんな場所でまで、他者の感情を肩代わりする必要はないよ」

 穏やかな微笑は、宗教画のそれとよく似ていた。
 カードには呪詛の言葉がただ一文。

「私が――我が」

 『おまえが×××××を殺したのだ』。

「もういいでしょう、サリエリさん」
Fine