頑丈だけが取り柄のシリンダーに鍵を差し込んでドアノブを引く。重苦しい軋音を上げながら開いた先は僕の部屋だというのに真っ白で、思わず眉を顰めそうになる。
 湿った臭い、どこからか忍び込んだ霧の気配に、とうとう消えてしまったんだと覚悟した。
 けれど靴を脱ぐよりも早く窺える、少女は何ともない様子で、ベッドの縁に腰掛けている。

「お帰りなさい」

 微笑みながら振り返って、掃き出し窓よりも僕に意識を向ける。セーラー服に肩までの髪。寒くないのかカーディガンのひとつも羽織っていない。
 やっぱり窓は大きく開いたまま。僕は息を吐いて、手にしていた紙袋をテーブルの脇に置いた。

「またやってる。霧が入るからだめだって言ってるのに……だいたい、どうやって開けてるんだか」
「あら。貴方の部屋ならもう、それこそ目を瞑っていても歩けるわ」
 換気扇を回して、残念がる君を尻目に窓を閉める。その間も口振りは滑らかで、ぶらぶらと足を揺らしながら、
「今は夜でしょう。光が柔らかいし、頬を撫でる空気の匂いもそう。ここでこうしていると外のことが分かって面白いんだもの」
 思わずカーテンを閉める手が止まるけれど、君は僕の方を見上げることもない。
「少しずつ人の生活している気配が減って行って、代わりに別の何かが蠢いてる気がするの。街にはまだ人がいるの?」
「案外残ってるみたいだよ。ここに戻って来る間にも、何人かすれ違ったし」
 ただ、あの歩いていたものが本当に人の姿をしていたのかは、分かるはずもなかったけれど。

 僕が帰って来ても君は相変わらずベッドに腰掛けたままでいる。一日の大半を、決められたわけでもないのにそこで過ごしている。行動が限られているとはいえ、見なくても歩けると豪語するくらいなら好きに行き来すればいいのにと思う。
 いつだったか、何故かと聞いた時には、
「ここが一番貴方の匂いがするから」
 そう言って無邪気に笑ったっけ。

「それで、見付けられた?」
 漸く霧の色が部屋から消えた頃、待ちきれない様子で君が首を傾げる。僕は先刻下ろした紙袋の持ち手を掬い取って、
「まあなんとか。どれでもいいんでしょ」
「そうよ。貴方が選んだもので構わないの。どうせ貴方しか見ないんだもの」
 紙袋から取り出したそれを渡す。帰り道にこの子の部屋に寄って持ってきたものだ。君はその手触りとボタンの位置をしばらく確かめてから、なんの躊躇いもなく着ている制服を脱ぎ始めた。日に当たることを忘れた真っ白な四肢、淡い色の下着も、恥じらう素振りすら見せないまま膝の上にワンピースを広げる。
 君が脱ぎ散らかした方を拾い上げて、裏表が分からずに戸惑うので、手を取って正しい向きに直してやる。そうすればまた慣れた風に、するりと裾を腿まで引き下げる。
 夏祭りの折に見たことのある、二の腕辺りで袖の絞られたワンピースだ。確か、パフスリーブとか言うらしい。暖房が必要になった季節には不釣合いかもしれないけれど、やっぱりそれももう関係ない。
「似合ってる?」
「うん。可愛い」
「やっぱりこの服が好きだったのね」
「どれか分かるの?」
「分かるわ。この袖のところと、胸元のボタン。それと、生地の感じとか。ね?」
 なるほど、目が見えていた頃より他の感覚が研ぎ澄まされていて、触感で分かるのかもしれない。

 君の顔を見る。少し傷んだその髪も含めて、ぐるりと巻き付いた白い色。
 そう、少女の視界はもうずっと、両目ごと包帯で覆われたままだった。

 心因性が強いのだと医者が言ったのはそう遠くなかった過去の話。目元に負った傷も深くはあったけれど、失明に至るようなものではなかった。
 ――傷は治ります。
 ――しかし、視力は、今は何とも。
 或いは、一向に良くならないのもこの霧の所為かもしれない。
 まるで御伽話みたいな非現実的な話だ。けれど現に僕の前で笑う君は気丈に見えて、どこか脆い。
 それこそ、夢でも見てるみたいにふわふわして、饒舌で。何もかも、忘れたがっている。
 現実も、恐らくあの時見たものも。良くないことを全て。 
 時々目にする、左の薬指の指輪をなぞる癖。指輪か腕時計が欲しいと言ったので、まだ開いていた頃に雑貨屋で買ったオモチャみたいな安物だ。多分そういう意味では僕の初めての贈り物。
「何か食べる?」
「お腹はすいていないの」
「けど、もう何日も――」
 言いかけて、指摘するのすら諦めてしまう。どれもこれも仕方のないことだ。
「いいよ、じゃあ、僕のを分けてあげる」

 フィルムを引き剥がして、掌に載せてあげたサンドイッチを、小さな口が食む。
 一度だけ、青空が見たいと言った唇だった。
 まだ病院に居た頃、もう一度あの空が見たいんだと。この部屋に連れてきてからは零しもしないけれど、その想いは変わらないだろうか。不在中に窓を開けてしまうのも、それでも逃げ出す素振りがないのも、その心の体現なんだろうか。
 けれど、この霧に溺れた世界の中では、もう誰も見ることはできない。
 君は幸運なのかもしれない。この惨状を知らないから、心の中に広がる快晴に焦がれ続けられる。皆が忘れてしまった正しい世界を色褪せないまま覚えていることが出来るだろう。
 蓋を捻って渡した炭酸飲料に一口だけ口を付けて、僕の食事が終わったのが見えていたかのように、またその唇が動いた。

「ねえ。私、ちゃんと私の姿をしている?」
「どうしたの、急に」
「本当は世界の全てが消えていて、この部屋だけがぽっかりと取り残されているんじゃない? だって、私がここに来てからどれだけ経ったか分からないけれど、誰一人探しには来ないじゃない。――けれど、それでもいいの。それでいいの。貴方がそこにいるなら。それとも――貴方さえ私の夢かしら。声と手のひらだけがそこにあって、本当はもう貴方はいないのかもしれない」

 唇だけが饒舌に、気丈に、弧を描きながら言葉を連ねる。脳とそのまま直結した言葉を、時折僕すら見えないみたいにして吐き出すんだ。手の甲だけは小刻みに震えて、私は永い末期の夢の中で、私の創りだした貴方と過ごしているのかもしれないわ、と、ありもしない幻想を、本当のように。
 だから僕はこっそり息を吐いて、パフスリーブのワンピースごと抱き締める。
 少し冷たいくらいの華奢な身体。そうすると宙に浮いていた蒼い爪の両足がフローリングをしっかりと踏んで、震えていた指先が静止して、忘れていた呼吸を、酸素を静かに肺に送り込む。

「どう? 落ち着いた?」
「うん。こうして寄り添っていると、少なくとも貴方の形をしているのが分かるわ」
 言いながら目端でまた左手の薬指を撫でている。
 そうして自分の身体の在り処を知りたいという。冷たい指輪の感触。お気に入りの服に着替えて、熱のない床板を踏む。ヘッドの大きなチョーカーが首元で揺れる。足の爪に色を重ねるのは僕の役割で、唯一、目元を締め付ける包帯だけは不満が残るようだった。
「これ、取ってもいいでしょう? 今なら少しくらい見える気がするの」
 そんなはずが、と思いながらも包帯を解いてやる。僕だって君の顔が見えないのはつまらない。けれど同時に、見えなくて良かったと思うのだ。
 はらはらと、ベッドの上に落ちる帯。見上げる両目は、見えていないなんて信じられないくらい透き通っていて。
 指が僕の顔に伸びてくる。ゆっくりと忍び寄って、辿り着けば、安心したようにひたひたとなぞる。それを待って、一回りも小さい手を包み込む。
「ほら、少しだけ分かる。目の前に貴方がいるでしょう?」
「それは触ったから分かるんじゃないの」
「かもね」
 良かった。君の眸はまだ元通りの色。一方の僕の両目は――

「ねえ、××さん」
 身体を離して、僕の両目を見上げながら、僕の名を呼ぶ。君の信じる、あの頃と変わらない僕の名を。本当は名前が良かったけれど。いつか試しに頼んでみようか。例えば、世界が全て裏返ってしまう記念に。
「なに?」
「私ね、本当は貴方が好きだったの」
「知ってたよ」
「よかった」

 ふわりと微笑むくせに、僕の気持ちなんて聞きもしない。求めやしない。最初から諦めているんだろうか。
 そんなもの、今ならいくらだって答えてやるのに。
 首筋に顔を埋めると、くすぐったそうに身を捩る。甘い匂い。握り返してきた掌。とくとくと心臓の音が伝わってくる。
「だから今、とても幸せ。こんな世界でも、もう少しだけ長く続いてくれないかしら」

 睨みつけた部屋の隅の液晶に映り込む、二人の姿。色がなくても分かる、僕の両目はとっくに変質してしまった黄金色。

「せめて、私が私でなくなるその瞬間まで」

 君はそれすら気付かないまま寄り添って、幸福そうに微笑むんだ。

End.