目を開けたのと、肺一杯に息を吸いこんだのは防衛本能の一連だったのだろう。
 横になっているというのに、ぐらぐらと眩暈がして世界が揺れている。仕方なくもう一度強く目蓋を閉じて、呼吸をすることに集中する。
 一緒に両の掌を握り込んだ。汗をかいているらしい、背中と首筋にうっすらと纏わり付く感触。おまけになんだか喉が痛い。喉奥になにか、絡み付いているような。
 ――蜘蛛の巣。
 少女は夢を見ていた。蜘蛛の巣の夢。青空の下を気の向くままに飛んでいた蝶が、家主の居る巣の中に飛び込んでしまった夢だ。何もしなくても身動きが取れなくなっていく真っ青な蝶。そうして絡めとられた蝶は、自分だった。
 今度こそ目を開ける。ちかちかと煩わしかった部屋はちゃんと真っ暗で、フットライトを頼りに身体を持ち上げた。
 まだ心臓が、ここが現実だと認識していない。本当は栞を呼びたかったけれど、点滅するデジタル表記を確認して、自分自身を落ち着かせる。
 
 ラグを踏み分けフローリングに達した足の裏が、フリースの靴下越しでもひやり冷たくて、また少し脳が冴える。蝶番が鳴かないように気を付けながらドアを開け、廊下へと出る。メゾネットタイプのマンションはこの都市にいる間だけの住処兼陣営の本部といったところだ。二階は彼女の部屋の他に個室が二つ、リビングやキッチン、水回りは一階に集まっている。隣室では栞が休止モードに入っているはずなので、物音を立てないようゆっくりと階段を降りていく。正面の部屋は空のままだ。
 寝巻代わりのロングパーカーの裾を握り締め、折れ曲がった階段の角まで来れば、リビングから届く仄かな光の影が見える。それを頼りにして、闇に慣れた瞳で下りていく。
 光源は部屋隅の間接照明だった。消し忘れていたらしい。お陰で、ソファに横になっている人の姿を捉えることが出来た。二人掛けの大きめのソファ。その上で毛布に包まって、四肢を折り畳んで眠る男の姿。テーブルの上に放り出したままの短銃と、天板の角に引っかかった、今にも床に滑り落ちそうなネクタイ。

 ――良かった。
 そっと息を吐きながら、何が良かったのかはよく分からないままだった。でも、彼の姿を見て、やっとまともに息が出来た気がした。
 
 肘置きを枕にして、狭そうながらも器用に眠っている。本当は頻繁に此処を訪れる彼にも客室を用意しようと思ったのだけれど、どういう訳だか栞に止められ、本人も気にしていないようでそのままソファを使って貰っている。
 寒くないだろうか。
 淡い蜂蜜色のランプの光。テーブル側を向いているその横顔を、起してしまわないよう背凭れの上からそっと覗き込む。
 僅かに上下する身体。少なからず、穏やかに眠れているように見えた。

 暫くそうして黙っていたけれど、不意な衝動に駆られて、こっそり手を伸ばした。
 ふわり。指先が彼の髪に届く。
 柔らかい。これではまた寝癖がついてしまうだろうな。
 一度、二度。つむじの脇からこめかみの辺りまでの短い距離の間だけ、その手触りを楽しんで、静かに手を離した。その途端。

「なにそれ」
 
 静かだった部屋に小さく、声が響いた。
 のそりと、決まり悪そうに半身を起こす、彼。
 目が合った。驚いている少女を余所に、頭を掻きながら。

「どうするのかと思ってれば、頭撫でるだけとか。もうちょっとなんかないの」
 それとも起きてるの気付いてた? と眉を上げるので、朝斗は、まさか、びっくりしましたよ、と答えて笑った。言えども夜中だから、掠れるくらい小さな微笑。
「僕さ、せっかく下僕なんだから好きに使えばいいのに」
「そういうつもりじゃないですから」
 背凭れに肘を突いていたので、そのまま見下ろす形になる。もう一度手を伸ばして、頭に触れる。
「だいいち間に合ってるでしょ? 人肌恋しいならお手伝いしてもいいですけど」
 言いながら、絡まっていた前髪を解いてあげた。まだ何か言いたげだけれど、構わずに勢いをつけてソファから上体を離した。少し顔を顰められてしまった。怒っているというよりは、反応に困っているのに近いらしい。
「何か、飲みますか」


  フィルターを取り付けて、ミルで挽いた豆を入れて、フラスコに水を注ぎ入れる。あとは出来上がるのを待つだけ。
 相変わらずリビングはライトを絞ったままだ。一応、もう一度眠るまでの時間繋ぎなのだからあまり明るくしたくない。彼が起き上がったことで空いた空間にちゃっかり陣取ってお喋りをして時間を潰すことにした。モヘア地のクッションの感触が良くて、膝の上に抱えて、爪先を交互にぶらつかせる。オーバーニーのナイトソックスごと、膝下までパーカーの裾に仕舞ったので寒くはない。
 少し遠くにサイフォンの音を聞きながら。
 そのうちに、さっきの続きだけどさ、と彼が呟いた。
「好きな相手とどうなりたいとか、ないの」
 これには返事より先にぱちぱちと瞬きをする。
「ないですよ。和やかに時間が過ごせれば、それで」
 多分さっきの、もうちょっと何かないのか、に係った話題なのだろう。こちらとしては『こうしてゆっくりするのが好きだ』という意味を込めたつもりだったけれど。
 首を傾げる、あまり納得の行かない様子に、例えばなんですけど、と続けた。
「例えば、僕、お酒強くないんですよ」
 そうすると今度は彼が、急に何を言い出したのかと訝しげだ。思わず口許が綻んでしまう。
「飲めないことはないです。ワインとか日本酒とか果実酒とか、味は好きだからたまに飲みますけど。お酒の席とか、酔わないですぐ具合悪くなっちゃうから。だったら最初から飲まないほうがいいかなって」
 例え話を持ち出した照れ隠しに、少しだけ眉を下げる少女。隣り合って座っている筈なのに、膝とクッションを抱えて、自分よりも一回りも小さい。
「……本当に何も残らないんだ」
 それは喉奥で呟いた言葉で、終ぞ少女には聞こえない。
 スイープ式の時計が熱心に闇の端に渦を造っているから、部屋の中に響くのは二人分の声。少しずつ、珈琲の香りが滲んでくる。その香りだけで随分夢の入り口が近付いて来ている気がした。
 その輪郭を遠ざけるようにして。

「あのさ」
 珍しく控えめに台詞を選ぶように問うので、朝斗は黙ったまま彼の言葉を待った。
「もしかしたらこんな根本的なこと、誰も聞かなかったかもしれないけど。君にとって、誰かを好きになるってどういうことなの?」
 ちらりと視線は返したものの、真正面から見返すものではなく、目の端、顔色を窺うようにして眺める少女の横顔。
 少女は、先刻より幾分か考えたもののあまり感慨もないようで、何とはなしに答えた。
 
「その人に幸せになってほしいと思えるようになること」
「自分がその人を幸せにしたい、じゃなくて?」
「どうして?」

 まるで透明に傾げられた小首。薄氷が割れるみたいに、純粋に。
 言葉まで、なにひとつ蔭りがないまま。

「相手が幸せなら、誰だっていいでしょう? 別に僕である必要なんてない。――あ、その人が私なら幸せになれるっていうのなら、それでもいいけど」
「君は、幸せにならなくていいの?」
「大切な人が幸せなら、幸せですよ」
「そうじゃなくて――」

 そこまで宥めながら、男はついに口を閉ざしてしまった。
 きっと何を言おうと、どう問い掛けようと、彼女の内側にない返答を引き出すことは出来ないのだ。
 少なからず予期していた。虚無の因子である彼よりも、硝子の瓶みたいに透き通っていて空虚。他人を優先するという意味ではない。彼女の優先順位の中に、自分自身は含まれていないのだろう。

「栞くんの苦労がよく分かったよ。報われないね、彼も」
 
 別段痒い訳でもない後頭部を幾度となく掻き毟ろうと、その最中、少女の表情が目に入って、指先の行方を彼女のこめかみへと変えた。
 仕返しと言わんばかりに、ぽんぽんと、冷えてしまった黒髪を撫でてやる。
 それでも淡い闇の内側で、少女の両目はどことなく心細そうだった。


 きちんと深い黒色に落ち着いたそれを、並べて置いたマグカップに均等に注いでいく。見様見真似で淹れた割には上手く出来た気がする。香りも、栞が淹れるものには劣るけれど、ふわりと喉の奥へ流れていく。
 両手に一つずつマグカップを持って、自信あり気に振り向いた瞬間、偶然にも彼の背中が目に入って、息を詰める。
 蜂蜜色の影を背負い、ソファに預けた猫背気味の後ろ姿。その首筋に何かが、糸が絡まっているように見えた。

「足立さん」

 まるで、夢の続き。
 まただ。あの、真っ黒な蜘蛛の糸。
 彼が振り返った瞬間には、綺麗に消えてしまっていたけれど。

 カウンター越しに目が合って、呼応の続きを催促される。咄嗟に呼びかけてしまっただけだ。だから仕方なく、カップの取っ手を握り直して、

「足立さんは、助けて欲しいですか?」
「えー? なにそれ」
 茶化すように肩を竦めて見せるので、ゆるりと湯気の上がるそれを彼へと手渡した。途切れてしまう芳香。指先から温かい珈琲が離れていく。
「君を助けることはあっても、別に助けて貰うことなんてないよ」
 
 ――君にとって、誰かを好きになるってどういうことなの?
 彼の本来の性格と、朝斗の下僕を名乗るその立場に相応しい、完璧な答えではあったけれど。

「なら、仕方ないですね」
 釣られるままに口角を僅かに持ち上げて、元通り隣に座って、両手で包み込んだカップに唇を付けた。

 ――でもやっぱり、貴方にも幸せになって欲しいんだけどな。


 誤魔化したのか言い包めたのか、もうどちらでもいいけれど、とりあえず今はそれぞれのカップで身体の内側を温める。他愛ない言葉を交わす以外に何をするでもない。
 ひたひたと忍び寄る夢は、今度こそ穏やかで優しいものに違いない。でなければ、何も見ずに済むくらいに深く。目を閉じた次の瞬間には朝焼けに包まれるような、本物の温かさを思い出させてくれるような優しさを。

「ところで、なんで珈琲? 眠れなくならない?」
「そうですか? 温かいものを飲むとリラックスするでしょう」
「そんなものかな」
「そんなものです」
「まあ、飲み慣れないものよりはいいか」
「ね?」
 とはいえ淹れたての珈琲は冷えた身体には耐性がなく、なかなか口を付けられないでいる。
 彼は、砂糖とミルクを入れてくるくる掻き混ぜる朝斗を見遣りながら、
「じゃあさ、これ知ってる? いい珈琲の特徴ってやつ」
「珈琲の特徴? 味とか、香りとか?」
「まあ、そんな感じ。ある国の諺なんだけど。珈琲は地獄のように黒く、死のように濃く。それと――」
「何をしていらっしゃるんですか」
 
 割って入ったまるきり別の声に、揃って背筋を強張らせる二人。朝斗などはもう少しでソファに珈琲を呑ませる間際だったが、寸手の所でどうにか持ち直した。
 足音どころか気配もなかった筈だ。致し方ない。振り返れば、背凭れの向こうの闇、二人を見下ろして佇むのは、二階に居たはずの朝斗の生体端末である。

「二人とも何時だと思っているんですか。こんな時間に珈琲まで飲んで、眠れなくなったらどうするんです」
「ほら言ったじゃない」
「飲み終わったら寝るよ。煩くしてごめんね?」
「多分、栞くんが苛ついてんのはそっちじゃないよ」

 相変わらず鈍いのかわざとなのか判断がつかないが。
 まだ半分ほど中身の残ったカップをテーブル上の怠惰コレクションに加える。ちなみにジャケットはソファの反対側に落ちている。それを栞が拾い上げたので、仕方なく、天板からはみ出してずり落ちかけていたネクタイも回収する。手渡した時に睨まれたので、もし次があったらせめてハンガーに吊るしておこう。

「ほら、部屋に戻って。飲み終わったら今度こそあったかくして寝るんだよ」
「はーい。おやすみなさい」

 栞に急かされるままに階段を上っていく朝斗。後ろ姿、長めのパーカーがワンピースのように揺れている。
 再び音と温もりを失ってしまった部屋。
 いつの間にかカーテンの隙間が淡く光を零している。改めて投げ出した四肢、見上げた時計の反射の中に、日の出の時間の方が近いことを確かめながら。
 言い逃した言葉を呟いてみる。

「珈琲は、ナントカのように甘くなければいけない――なんて、ね」

 冬の夜に沈むソファは、やっぱり少し寒い。

End.