視界が霞んで、やけに頭が痛かった。

 目眩というやつかもしれない。乗り物酔いにも似た吐き気と浮遊感。無理に身体を起こして、辺りを見渡す。セミダブルくらいのベッドの上、嵌め殺しの窓に、ボックスつきのカーテン。まるでどこかのホテルの一室だ。サイドテーブルに黒い革の財布があった。拾い上げてみればよく手に馴染んだ。
 慣れてしまったのか、頭痛は次第に薄れて分からなくなった。けれど違和感だけは確かに残った。知らない部屋、欠落した時間の感覚、ふと見下ろした掌さえ自分のものではないような気がした。引き開けたカーテンの向こうは、ただの暗闇。

 ――どこだ、此処。


 酩酊で記憶が抜け落ちている程度ならまだ可愛いものだ。壁掛け時計の針が動いていないのも今は些細なことに思える。ひやりと手を押し付けた窓ガラスの下には夜景も潮騒の影も見つからず、それどころか、すぐ下の階の灯火さえ映っていない。あるのは純粋な漆黒。おそらく風も吹いていない。もしかしたら空気さえないのかもしれない。
 いや、それこそ今はどうでもよかった。残るのは違和感だ。心臓と感情はそれでも落ち着いている。だから余計に滑稽に思える。
 クリーム色の壁紙に、足元はしっかりした絨毯。ポケットには何故かボールチェーンが通った未記入の認識票。服装は、白いワイシャツにグレーのスラックス。それはなんとなく納得出来た。自分ならこういう服装が多いのだと漠然と感じられたから。

 違う。そういうことじゃない。
 ガラスに映る顔が、お前の話をしているんだよと睨んでくる。逃げないでちゃんと話を聞け。いいか、一体お前は誰なんだ。
 僕は、一体、誰だ。


 記憶が無かった。今がいつなのかとか、自分がどうして此処に居るんだとか、それ以前に自分が誰なのか分からなかった。
 ガラスに映った表情、それにはなんとなく見覚えがあったし、先刻のように来ている服にも愛着が残っていた。歩き方も、呼吸の仕方も分かる。鎌倉幕府成立の年号も口を突いたし、九九も九の段まで暗唱出来る。だからどうやら、分からないのは自分自身のことだけらしい。
 自分が何者なのか、此処は何処なのか、どうして此処に居るのか。明らかに怪しい気配をさせる建造物の中にいて――窓からの景色だけでは、此処が本当にホテルなのかも判断出来ない――これからどうすればいいのかも見当がつかない。

 真っ先に思いついたのは、これが夢である可能性だ。本当の自分が見ている夢なのだとしたら前後関係が曖昧なのも記憶があやふやなのも頷ける。しかし、明晰夢であってもその効果は継続するのかどうか。そもそも今の自分には、僕には以前の夢のことさえ分からないのだから判断が難しい。
 次に疑うべきは、自分が何かの事件に巻き込まれたのではないかということ。例えば誘拐や拉致やらの途中で頭を強く打ったりして一時的に記憶障害に陥っているのではないか。それなら先刻までの酷い頭痛にも理由付けが可能だろう。けれど、確かめた限り全身何処にも外傷が見つからない。これが事件の経過だとして、対象が無傷ということがどれだけあるのだろう。

 僕は身体を再びベッドの上に投げ出した。あれこれ悩んでいるのが阿呆らしくなったのだ。だって、どうせ、ここで懇々と悩み考え抜いたとしても正しい答えなんていつまでも現れない。
 そう、恐らく現実というものは行動によって裏付けされる。現状の把握をするにはこの足を使って散策するのが手っ取り早く、この代わり映えしない部屋の天井を眺めているよりも、五感を刺激して歩いたほうが記憶を取り戻すヒントになるかもしれないじゃないか。

 ぐ、と、指先に力を入れて握り込んでみる。肺一杯に空気を取り込む。空腹は感じられなかったが、冷蔵庫の上にミネラルウォーターのペットボトルが見えたので取り上げた。
 温い流水が喉を落ちていく。視界がクリアになる。
 やはり僕は、此処を出ていく必要がある。