キーボードから手を離した私に向けられたのは、携帯端末の冷ややかな眼だった。
 理由は分かりすぎるほど分かっている。そのうちの一つは今書き上がったひとつの結末で、もう一つは私の耳につなげられているイヤホンが原因している。
 それでも、利口な携帯端末は決して口出しをしない。ぐちぐちとお小言等を並べ立てることもなく、その代わり、東北の冬空よりも凍てついた視線を投げてくるのである。

「な……なによ」

 別に後ろめたい所などない。そう自身に言い聞かせながら、無言より能弁な視線に反論する。それでも彼――栞は端的に、いえ、と首を振るばかりで、なにやら少々力の入った右腕でミントティーなどを淹れてくれる。
 執筆の後はお疲れでしょう。と、恭しく首を下げながら。

「ところで安里さま。いえ、安里? 私はいかが致しましょう。そろそろ私の声にも飽きたでしょうから、音声を変更しておきましょうか?」
 しれっと言い始める言葉の端に、危うく紅茶を吹き出すところだった。
 危ない危ない、なんとはしたない。
「な、何を言い出すのかしら。ああ、そうね、MUSICも発売されたし、また一ノ瀬さんの声になってもらっても、むしろ今回はHAYATO様でもいいかもしれないわね。ね?」
「何を仰いますやら」
 何処で覚えて来たのか、軽く笑い飛ばすポーズをしてくるのが怖い。
「私の主は今、一体何のCDをお聞きなのでしょうね? 先日届いてから毎日のように聞いているものがあるではありませんか。ほらそこの」
 優雅な指先が、机の角に出しっぱなしにしていた一枚を指差す。いや、実際の所は三枚なのだけれど、明らかに私の相方が示しているのはその最上層になる一枚なのだろう。
「だから、今回は是非とも黒田嵩――」
「うわわわわわ!」
 あろうことかその一声から既に声が変わっていて、慌てて遮る以外に取る手段が見つからなかった。とっさに立ち上がって、身振り手振りを盛大にする。それでも尚発声しようとするので、とっさに両手でその口元を覆った。
「分かった! 分かったから! 私が悪かったから許して!」
 もごもごと、掌を伝って音が漏れてくる。その響きは明らかに私の動揺した声帯そのままで、これではまだ手を離すこともままならない。反対に更に強く、押し付けたりして。
「もごもごもご」
 何がですか、と聞き取れた。私はもう涙目になりながら、
「だって、仕方ないじゃない……! この作品自体私のおじさんと少女の構図好きが高じて書き始めたものだし! そんなときにこの存在を知っちゃったら、か、買うしかないじゃない!」
(それは別に構わないのですよ。貴女の壮年中年好きは今に始まったものではありませんからね)
「全然構わないって思ってないでしょ!」
(既に病気の一種ですよ。私も諦めています)
「じゃあどうして苛めるのよーー!!」
「苛めていませんよ。私なりに気を利かせているのです」
 いつのまにか手の間を掻い潜って、栞の声が聞こえている。
 やんわりと受け止められた私の両手。注がれる優しげな眼。口元の笑みも穏やかに見えるけれど、いまいち納得できない。
 それでも、声だけはちゃんと元に戻っていたので、私は少しだけ、信用することにした。
「本当に?」
「本当です」
 棘の取れた言葉に、やっと息を吐いて。
「大丈夫ですよ。私は信じています」
「うん。ありがとう、栞」
「信じていますよ。きっと、あのCDを聞いても聞かなくてもこのような結末になっただろうということを、ちゃんと知っていますから」
「って、それ結局同じ意味じゃない!」

 どうしようもないくらい太陽並みに眩しい笑顔。
 許してくれているのか、その前に本当に納得しているのか。
 とりあえず、今までのように無条件で怒っているわけではないということを、その悪戯な微笑の中に見つけて。
 結局子は親に似るのだと再認識した一夜だった。