字幕の独特のフォントは、物語を彩る装飾品の一つだといつも思う。演じている本人の声、間の取り方、感情、それにひっそり添えられた、紛れもないドラマの一部。
 だから入り込んでしまえばあっという間で、そうなると外が雨だということも隣に悠花が居ることも緩慢と薄れてしまって、まるでガラス一枚を隔てた場所からそれらを見ている感覚に陥る。
 時間の経過も同じだ。薄いガラスの向こうと針が重なる。その時の経過と共に進むから、現実世界の時間など一足飛びに過ぎていく。
 自分は誰なのか、自分たちは何なのか。
 最初から忘れるはずもないのに、何故か新しい虚像が見つかった気がして。例えば、廃ビルに棲み付いて賞金稼ぎ紛いの無差別な偽善を囲う姿が。

 俺を僅かに現実に引き戻したのは、少女が自分の手の甲で目元をぬぐう仕草と気配だった。隣に人がいるという証明、自分が此処にいるという道標。
 ソファに戻った途端、自分自身の目にも緩いものが集まっていることに気付く。そしてタイミング悪く、静かに窺ったつもりだったのに目が合う。
 ――あ。
 目が合って、彼女の瞳が涙に滲んでいるのを見る。それを目視出来たということは、反対に俺自身の顔も確認出来たということ。
 哀しさは向こうの現実に置いてきたから流れ落ちるまではいかなかったけれど、鼻を啜ってしまった手前、感極まっていたことは誤魔化しようもない。鏡は見ていないので、自分の目も彼女と同じように赤くなっている可能性が捨てきれないでいた。
 すぐに離れてしまったものの、少女の目が何かを言いたがっていたように見えたのは被害妄想ではないはずだ。
「すみません」
 ぎこちなく逸らそうとした視界。ほろり、頬に流れそうになるそれを、悠花は自分の指で掬い取る。
「袖、濡らしちゃいました」
 自分の手首の辺りを居心地悪そうに擦って。両目はテレビの画面に注がれていて、余韻から零れる同じものを苦笑しながら拭った。
 願わくば、この涙ぐんでいる両目が、自分が思っているよりも印象薄くあるようにと。

 映画が終わる。物語は終焉を迎える。
 取り敢えずの結末を、或いは通過点としての決着を。見る者の心に、思考回路に、緩い傷を残しながら。しぶとく残るそれがいつか治癒する頃には、『俺達』の感情は真新しい感覚を我が物とする。

 継ぎ接ぎをしては成長していくものを大切に抱えて、或いは疎んで。
 拳銃がリモコンに戻る頃、俺はまた『正しい白城史朗』に還らなければいけないと。
 内心考えつつも、やはり染みるものはどうしようもなく染みるのだ。

 エンドロールが途切れた後に何を喋ろうかと、今はひたすらに、脳内を占めるの数少ない抽斗を必死になって探し回っていた。