宵の口。明星瞬く空の下にその屋敷は在った。
 鬱蒼と茂る木々に埋もれ、星雲の輝きを反射する青い屋根。次第に肌寒くなる夜風。窓の内側には淡く灯が灯っている。揺れるのは風の所為か。その揺らぎが落ち着きを取り戻す頃、次いで蒼白顔の給仕が真紅の絨毯を駆け抜けてゆく。

「――様!」
 声の響きは抑えながらも逼迫していて、その証、彼女が急ぐ突き当たりには一人の影が在った。
 エントランスホールの階段上、ドアを一枚隔てた先。普段は使用人の一人さえ使わない廊下の隅で、少年は危なげなく玻璃窓の縁に手をかけてひとり佇んでいた。
 両の足は一寸もその場を動くことなく。
 けれどしっかりと根付いて、まるで今にも軽やかに歩き出すかのように、その真っ白な踝を天鵞絨の上に落として居た。
「真穂良様! 御体に障ります、どうぞお戻りください」
 平伏をもする勢いで給仕が首を下げた。けれど少年の眼は変わらず外界に注がれていて、透明な頬の上に弱く星の光がかかっていた。
「良い」
「ですが……!」
 抑揚のない透き通った声音。尚も食い下がる給仕へはついに視線だけで制する。ただそれだけで、女は何も言えなくなる。


 遠く窓外に此岸を視る。
 月のない空に流星がひとつ。空の端は人工の明かりで白く染まっている。少年はまた一人、何を思うのか。長い間無言だったその横顔をなぞるのは夜ばかりだった。
 やがて星の色は翳り、静寂の中に男の声が浮かぶ。
「顔色が宜しくないようだよ」
 少年は首を巡らすこともせず、視線の端だけで客人を迎えた。絹のように穏やかな声。呼びかけた当人はそれでも気分を害すことはなく、いつものようにその鷹揚さに肩を竦めた。
「――お前か」
「いたずらに召使達の心を掻き乱すのはいつまで経っても変わらないね」
 返答は無い。けれど少年の口元が僅かに持ち上がったのを男は見逃さない。男は知っているのだ。この屋敷の主の、僅かな感情の機微さえ読み取れる程に。それまでに、彼らの巡らせた時間は永い。

 朔の暗がりに屑星の影は眩い。樹木から切り出された遮るもののない夜の姿は、時間の枠組みさえ滲ませてしまう。
 一時か、百年か。錯覚するまでに彼らは此処に居続けている。姿を変え、時代を変え、それでも魂の根源だけは変わることがない。感情は。本心は。一千年を隔てようとも変質することはない。

「鞠華を呼べ」
 夜の帳の上を滑るように、透明な声が響いた。突然の閃光に男は顔を上げた。少年の面は今も夜を見据えている。
 マリカ。口内でその言葉を復唱する。口にするのすら酷く懐かしい名前だった。音を以て形容るだけで、その姿が鮮明に蘇る。
 それは愛しい者の名前。主にとって唯一の名前だった。

 故に男は、直接言い表すことも躊躇われて。