「ほっぽり出すってなんですか」

「え」

 聴き入っていたメディアプレイヤーの再生をオフにされて、否応なく彼の顔を振り仰ぐことになった。
 何かを訴える両目は黒耀石。しかしその輝きはふつふつと怒りのようなものが混じっていて、まぁ、彼に限ってそんなことはないだろうとタカを括りつつも何やら見過ごせない心持ちになった。

「仕事はPCだし、携帯電話も家に帰ったら放り出すレベルってどういうことですか、安里さま?」

 彼が何を言い出したのかは、ここに来てやっと理解する。
 彼が責めているのは、どうやら主人の先日の『会話』らしい。主人、安里の親愛なる魔王のプライベートに新人のスマートホンがやってきたという話に対しての、他愛ないお喋り。うちの子がどうこうという下りにさらり、残した言葉がしっかり携帯端末自身の目に止まったらしい。
 正直なところ、当人には全く悪気はなかった。どちらかと言えばスマートフォンを購入しないという決意のほうに重きを置いたのであって、決して携帯端末が不要だというベクトルの話ではなかったはずだ。
 はずだけれども。
 よくよく振り返ってみれば、ニ・三言葉が不足している気もする。
「いや、それは言葉のアヤっていうかなんていうか」
 安里に重要だったのはオーバースペックだという事実だ。けれど相手は携帯端末。行間を器用に読むというスキルは、まだ実装されていない。
「つまり私は必要ではないと?」
「いやいや必要だよ必要ですよ。その証拠に、テレビ見るときは片時も離さないし、仕事中だってこっそり開いたりするでしょ」
「それは実況とTL確認のためですよね」
「うっ」
 建前の裏の本音をびしりと突きつけられ、言葉に詰まる安里。
「最近はプライベートのメールも電話も極端に少ないですし。友達いないんですか」
 萎縮する安里を前にして、携帯端末は仮にも主人に容赦がなかった。次から次へと、まるでどこかの毒舌執事の如く、いやそれ以上に冷ややかな言葉を浴びせ続ける。
「第一、実況もTL確認も必要なのは私じゃなくてTwitterでしょう? Twitterができるなら私じゃなくてもいいんでしょう」
「ち、ちが」
「どこが違いますか。この際私じゃなくてクライアントの誰かを同行させればいいんじゃないですか。そうすれば私は晴れて自宅待機です。一日ベッドの上で優雅に過ごせますよ。あと仕事中は仕事に集中してください」
 ひと通り思う所を言い尽くしたのか、携帯端末はそこまで一息に喋ると、じっと言外で訴えた後に目を背けた。
 一方の安里は、どちらかというと呆然としていた。怒りだとか困惑だとかを感じるよりも前に、ああ、こいつも随分人間染みて来たな等と噛み締めていた。勿論、そんなことを考えていたなどと口にすれば余計にややこしくなるので黙っている。言わぬが花、知らぬが仏、二つが合わされば最早極楽浄土である。
 それに何より、それが嫉妬だということを彼自身気づいているのかどうか。
 無言のまま携帯端末は、キッチンへと下がってしまった。カウンター越しに見えるのは背中だけで、どんな表情なのかは見て取れない。
「そんな、密男みたいな言い方を……」
「おや、違いますか?」
「違うわよ! 本命だよ!」
 言葉にしてみればそれは容易にカチリと嵌る。お陰で幾分か携帯端末の溜飲も下がり、煮え切らない態度で、本当ですか?と尋ね返してくる。
 本当も何も、こうして数年単位で一緒に居るのだから、それが答えだろうに。
 まだまだ器用とは言えない彼の感情の、人間も手を焼く『嫉妬』の部分。
 だから安里が吐いた息は溜息などではなく。
「あんたは、ちょっと寂しくなるとすぐ拗ねるんだから……」
「拗ねてなどいません。端末が主人に対して拗ねる理由がありません」
 けれど、逸らされた視線が戻ってくることはなく。

 携帯端末がこちらを見ないのをいいことに、安里はくすりと微笑した。
 全くもって、彼の得意とする理屈や理論といったものが破綻している。これを彼はエラーと呼んで嫌がるけれど、主人としては、完全無欠なパートナーが見せる綻びはとても可愛らしく愛おしいのだ。
 こういう時、自分が何を言えば良いのか、彼女は知っている。携帯端末が『何を』要求しているのか――勿論それすら、彼は否定するのだけれど。
 ちゃんと分かっているのだ。隠し事が下手なのは、主人に似てしまったのかもしれない。

「栞。しーおーり」
「はい、なんでしょう。安里さま」
 相変わらず突っ慳貪な物言いに、声を殺して笑う。カウンター奥で紅茶の用意をするその肩を、ぐいぐいと押してソファに座らせる。
「ええとね、明日、祝日じゃない」
「はい」
 不服そうに栞は頷く。安里は益々表情を穏やかにして、
「でね、映画を見に行こうと思ってるの。それで、お昼はパスタが食べたいなーなんて思ってるんだけど、どうかな」
 ずるずると椅子を引き摺ってきて、テーブルを挟んで栞と対面する。ソファに座る携帯端末のほうが僅かに視界が低い。けれどそのお陰で、二人の視線の高さは均一になる。
 この映画を見たくて、出来れば昼食はその後で、近辺で美味しいお店があるといいな。漠然と予定を連ねる主人に、それならこれはいかがでしょうかと、様々なプランを並べる。更にその上に安里が希望を重ねて、それを元にして最適なタイムテーブルを設定していく。
 それはよく慣れた二人のやり取り。安里が多少の無理を言っても、栞はいつだって涼しい顔で応える。きっと今も、数瞬前の確執さえ忘れて。
「うん。じゃあ、13時の回がいいな。そうするとお昼はその前にしよう。眠くなっちゃうかな?」
「大丈夫でしょう。それに、万一あなたが食べ過ぎるようなら私が止めてさしあげます」
 ふっと口角を上げる栞。やがて何かに気がついて、すぐに無表情に戻ってしまったけれど。
 きまり悪そうに視線を僅かに下げて、にこりと笑う主人のその『笑顔』に気づかない振りをして。
「どう? これでも不要かな?」
「さあ。こればかりでは測りかねますが」
「そうかな。じゃ、これからもしっかり統計取ってよ」
 切り換えに、溜息をひとつ。
「分かりました。安里さま」
「減点一。やり直しね」
 観念して肩を下げる携帯端末の、すぐ眼の前に一本指を宛てがった。すると相手は言いつけられた意味を上手く理解して、自分の発言を訂正する。
「『安里』」
「はい、よくできました」
 その髪の毛をくしゃくしゃと撫で付ける。

 それから、テーブルの片隅に据えてあったプレイヤーのスイッチをオンに戻した。スピーカーからは彼女のお気に入りの曲が流れて、昼下がりの彼女の部屋を軽快に彩っていった。

 撫でられた頭の辺りが、ちょっとだけくすぐったい。
 うまく丸め込まれた気もするが、先刻までのノイズが消えていたのでよしとすることにした栞だった。
 そう、彼は携帯端末。彼女のためにある、唯一の存在である。