二時を回って客足の落ち着いた店内には、控えめな喧騒とBGMが溢れている。
 それらは隣席の話し声さえも上手く遮断し、向かい合って座る私達の声だけをお互いに渡していた。
 着席して間もなく、店員が二人分のコップを運んで来た。主人はその一口で喉を潤し、共に運ばれてきたメニューを悠々と眺めた。

「どう? 貴方のお姫様は見つかりそう?」
 主人の言葉に、対面の男――魔王の懐刀は静かな微笑を浮かべる。どこかぎこちないそれは、おそらく当惑という感情だろう。
「足跡ひとつ見つけるので精一杯です。そちらはどうですか」
「こっちも、ガラスの靴を拾うだけで肝心のお姫様には追いつかないの」
 私は黙って彼らの会話を見守っている。目の前のガラスコップ。私は給水を必要としないので、テーブルの表面に水滴ばかりが広がる。ふと目をやった彼のコップも、どうやら口をつけた形跡がない。
「手掛かりがあるのですね」
 主人の言葉に、男がやや色めき立つ。主人はデザートのページから目を上げ、頷く代わりに少し口元を和らげた。
「魔王は相変わらずお茶目ね。てっきり用件は伝えていると思ったけど」
「今日の件に関しては、切符を一枚頂いただけで、何も」
「そう」
 クスリ、僅かに傾げられた首。再びデザートを選ぶ眼差しは楽しそうに見えた。
 嬉しそうと言ってもいいかもしれない。もしかしたら、こちらは安堵という感情かもしれない。

「じゃあ、心待ちにしている貴方のために早速本題に入りましょうか。――栞」
「はい」
 彼女の視線に従って私がテーブルに並べたのは三つの小さな箱。それぞれが半透明で、中に入る『それら』が大人しくしている様子が見て取れる。
 少々妙な言い回しかもしれない。けれど、主人がそう表現するのだから仕方がない。
 間違いはない。手の中に収まる大きさの箱。その中にあるものは無機物だが、生きている。

「これが手掛かりですか」
「そうよ」
 ピリピリと緊張した眼差しで彼はそれらを見詰めていた。

 一つ目の箱は、中に漆黒の箱が入っている。
 表より一回り小さな、黒くて暗い立方体。
 二つ目の箱は、中に硝子の瓶が入っている。
 コルク栓の空き瓶。中には更に、青色の紙片。
 三つ目の箱は、中に橙色の実が入っている。
 密閉された容器の中で、芳香さえも箱の中。

「此処で開けることは出来ないから、この状態で勘弁してね。これが何か、分かる?」
 彼の目は射抜くようにひとつひとつを見比べた。恐らく自分の持つ記憶に重複する情報がないか探しているのだろう。やがて弾き出した言葉を用いて、それらを表す名前を口にする。名前、或いは、符号。

「魔女の箱、人魚の手紙、生者の――心」
「あら、全問正解?」
「お陰様で、貴女の世界を随分行き来させて頂いていますから」
 肯定のつもりか、謙遜の意味か、彼はささやかに頭を下げた。その様子をじっと見る主人の横顔を、私は傍らで盗み見る。
「これはヒントよ。魔女の箱、人魚の手紙、生者の魂。三つの導く先にアサトは閉じ込められている。貴方なら上手く使えるはず」
「貸して頂けるのですか」
 ぱっと表情が明るくなる。見開かれた瞳のその中には動揺。
「いいえ、あげるわ。私にはもう必要ないから」
 主人は穏やかに首を振った。躊躇いはない。彼女は既に、そこにヒントを見つけたから。
 だから、これらの破片は、彼女を案ずる彼へと渡す。これは運命なのだと、以前主人が言っていた。

「その代わり、必ずあの子の所へ行って。私も必ず見つけるから」

 強い強い、意志の瞳。
 賑やかだったはずの店内の音が一瞬途切れたように思えた。主人の声だけが、明瞭に『耳』に残る。そして恐らく、彼の心に刻まれる。

 雑音が再来する。男は膝の上で軽く拳を握りなおすと、簡潔に頷いた。
 誤魔化すことはない、誤魔化しは、通用しない。きっと彼にもそれは分かっている。だからただ一心に頷いて。
 主人はそれに目を細めてから、ふっと息を吸った。

「よし、決めた。私この和風白玉善哉金魚鉢パフェにする」
 人知れず目を見開いたのは私だった。うきうきと指差すメニューには確かにそういった名前の品目が存在していた。値段もまた他のデザートメニューより一回り大きかった。
 私が問い返し損ねているうちに、向かいの彼が突然席を立った。
「では私はこれで」
「もう行くの? 何か食べていけばいいのに」
「いえ。一度主の所にも伺う予定ですので」
 表情は紛れもなく微笑。私達がこの店にやってきて最初に見た彼のそれと同じように見えた。
 けれど、言葉には僅かに焦燥。よく隠しているように感じられるが、ちらりと見えた目にも急いた色が窺えた。

 それに気付かないはずもないのに、私の主人は残念そうに手を振った。一礼もそこそこに立ち去ったベルの音を聞きながら、私は思わず同情の溜息を吐いた。

「私は魔王のことはよく存じ上げませんが」
 向かいの空いた席に移動しながら。
 名残惜しくメニューを眺める主人が、怪訝そうに私を見る。
「貴女も彼女に負けず劣らずお茶目――いえ、余程悪戯好きのように思います」
「大丈夫。彼ならちゃんと自分で気付くわよ」
 私は首を傾げることもなく、その言葉の続きを待つ。店内に流れるBGM。お喋りの声と、食器の音。大きな硝子窓の外はいつしか雨が降っている。

「だって、囚われの姫を救うのは王子様って決まっているでしょう?」

 完全なる乙女の微笑。その実、その内側はそのような純粋なものではないと知りつつも。
 彼女の右手の人差し指がテーブルの隅に伸びる。
 ピンポーンという電子音を追いかけるようにして、店員の声が、ただいま伺いますと声高に答えた。