「魔王が来たぞ!」

 突然響いた誰かの声に、大通りに居合わせた人々は騒然とする。立ち込める重苦しい雲、遠くでは雷鳴を知らせる呻り。やがて頬を叩く雨粒の中、誰もが自らを守ろうと逃げ惑っていた。
 私はその人の波に逆らうように坂道を登る。いつしか本降りになった驟雨に足を取られながら、逸る思いでその道を駆け抜けていく。

「魔王が――…!」

 叫ぶものが誰なのか、気にしている暇もなかった。この街を脅かす魔王。突如として現れた脅威。それを食い止めることが出来るのは、悔しいことに私しかいない。

「こっちだ、セト!」
 街路樹の陰から漆黒の獣が躍り出た。それは当たり前のように人語を操って、私の速度に並走しながら呼びかけてきた。
 彼はちらりと私を見ると、ぐいと鼻面を右へと逸らした。そのまま躊躇わずに茂みの中へと滑り込んでいく。その先は公園のはずだ。確かに、この道を駆け上がるよりはずっと近道かもしれない。
 制服が汚れてしまうのも構わずにその艶やかな後姿を追いかける。黒犬の毛並みは一滴として濡れていない。それは彼がただの犬でないことを改めて証明しているようだった。
 ツツジの枝の間に飛び込んだ途端、視界が光に包まれる。人工的な白い光。メタモルフォーゼ。視界にかかった前髪を掻き分ければ、その袖は既に制服のものとはまるきり別物に変化していた。


 そう、私は魔法少女。
 魔王の脅威から皆を救うために、今日もひとり街を疾走する。



 変身のお陰で幾らか身体が軽い。ひらりとフェンスを乗り越え、えいやと塀を飛び降りる。この衣装でも雨は遮断してくれないので、足を滑らせないように気をつけながら。

「カイン。魔王は何処にいるの」
「西の岸壁に。どうやら、『城』で貴女を待ち受けるようです」

 思わず舌打ちをする。もうすっかり見慣れてしまった魔王の姿が脳裏を過ぎる。不敵で自分勝手な笑み。山羊に似た角と、夜の帳のようなマント。罠だと知りつつも、駆けつけるしか術はない。
 ふいに視界が開ける。海沿いの展望台に辿り着いた。見下ろす先には海沿いのレンガ道と、その先にある防波堤。波消しブロックの合間から真っ白な飛沫が吹き上がっている。

「見えた」

 更に最西に浮かび上がる異様な建造物。海の霧に霞み、稲妻を背負う漆黒の城塞。あれが魔王の棲む城だ。

「覚悟はいいですか」
「ここまで来たら仕方ないわ」

 忌々しく溜息を吐き出しながら。次の瞬間には、黒犬と共に宙に飛び出していた。

 立ち向かうだけで難なく開く扉の数々に不安と怒りを募らせていく。嵌め込みのステンドグラスの外は土砂降りなのに、この城の中には雨音一つ届いてこない。
 導かれるように、上階へ上階へ。最後の螺旋階段を上りきると、背丈の三倍はある扉が私を待ち受けていた。
 カイルとはいつの間にかはぐれてしまっていた。これはいよいよ罠の気配だ。けれど私は振り向くこともなく、その黒塗りの扉へと手を伸ばす。
 これもまた、触れるより前に開け放たれる。音もなく、私を導くように。僅かに漏れる光の向こうへと、深呼吸をひとつ吐いて、一歩を踏み入れた。

「待ち侘びたぞ、魔法少女よ」

 闇に溶け込むその姿。言葉を待っていたように雷鳴が魔王を縁取る。
 鎖の絡まる玉座に座す、妖麗な男の姿。

「騙されないわよ」

 そして相手が言葉を続ける前に、一刀両断する。

「いい加減にして!人の迷惑も考えなさいよね!ルシフェル!!」

 その顔がちょっと不服そうに歪んだ。