夜の到来は一瞬のことで、人で溢れる下町通りも今は暗い帳に覆われている。
 いや、城下だったのはほんの数年前までのこと。商人や職人の活気であふれていた道は、今や真新しい建物が並んでいた。
 褐色の煉瓦敷き、両側に並ぶ目映い瓦斯灯。夜を厭うはずの風習は僅かに薄れ、その幻想的な風景は遥か異国のものと良く似ていた。着物姿の男性と、ドレス姿の女性が並んで歩いていく。人力車と馬車が道を行き交う道の片端。そこで黒い馬車の扉が開き、夜闇の中に一人の少女が降りてくる。
「ありがとう」
 手を伸べるのは付き人の男。その右手に支えられて、珊瑚色の裾がふわりと着地する。年端も行かぬ少女が微笑み見上げれば、漆黒の瞳が夜光に揺れる。
 赤毛の上品な馬は静かに首を下ろし、彼らを見た。少女が鬣をひと撫ですれば、己が仕事を察し低く嘶く。そして少女と付き人は、一軒の料亭へと入っていく。
 外装とは少し勝手が異なる、幾分か江戸の風貌を残した店構え。その内では大勢の者が懸命に箸を動かしている。甘辛い味噌の香り。鍋の端から漏れる煙。その陰に、金の髪をした男が一人、座っている。

「間に合いました?」
 少女は迷うことなくその男の前へと向かった。お互い直接会うのは初めてだった。しかしその言葉を合図として、男もまた砕けた笑みを浮かべた。
「いえ。丁度鍋に火が通った所ですよ」
 促されるままに少女は正面に腰を落とした。改めて男の風貌を見る。金の髪に青玉の瞳。コール天の洋装は、港界隈に溢れる軍兵とは異なるようだった。

「これでも随分急いだほうですよ」
 軽く襟元を寛げながら、何気ない素振りで男が腕を上げた。喧騒に紛れて男の動作へわざわざ目をむける者はいない。唯一、同席している少女と(しもべ)だけがその意味を知る。それから少女は軽く右手を持ち上げ、男の指先を掠める程度に空を薙いだ。

「さすがに、この辺りでは融通が利きません。知り合いの新聞屋にも頼み込んで、やっと集めたのがこれだ。ご所望のものが、混じっているといいですが」

「ありがとうございます」

 袖口に紛れてしまいそうな小さな紙切れ。四つ折りの和紙。中をちらりと確かめると、少女は逆の手から縮緬模様の箱を滑らせた。それを静かに握り込んで、西洋の男がにやりと笑う。
「でもまさか、お嬢さんがこんな場所に来てくれるとはね。牛の肉など食べたことは?」
 七輪の上でぐつぐつ煮立つ鍋の手前。まだ幼さの抜けない面立ちは、精一杯の澄まし顔を飾る。けれど箸を取ったのは碧眼の男の方だけで、娘は珊瑚色の袖一つ上げないままに促した。
「ありますわ」
「おや、どうして知識人だ」
「あら。わたくしこれでも貴方より長く生きてますのよ」
 ふふふ、と微笑を零す可憐な少女。それはまさに、牛鍋屋には似つかわしくないように思えた。ここではなく、どこか英国庭園で白磁のカップを片手にするほうがよっぽど釣り合っている。

「さしずめ君は魔女ってとこかな」
 苦笑しながらも、慣れた手付きで二本の棒切れを扱う男。もしかすれば、彼は彼でこの国の生活が長いのかもしれなかった。そう言えば男はその容姿とは不似合いな程、流暢に日本の言葉を操う。敬語と砕けた喋り言葉を適度に折り合わせては、少女の微笑みを誘っていた。
「魔女と言えば、私の国に変わった伝承があるんですよ」
 箸休めの代わりに、男がどこからか世間話を持ち出してくる。相変わらず一口も付けない少女を見ては、美味いですよと器を押し遣る。

「伝承と言うより、寓話と言ったほうが近いか。この世界は全てひとつの箱の中に起こる出来事だ、箱の中の混沌や困惑は、それを覗き込んでいる魔女の気紛れに過ぎない、と。箱の噂は、聞いたことが?」

「あるわ」

 大降りの肉を掬い上げながら答える。箸をつけようとする少女の腕を押し留めようと従者は手を伸ばした。それにゆるやかに頭を振る。

「箱を持つものが、願いを叶えられるという話でしょう」
「そうか。それなら、良くある話なのかもしれない」
 少女の言葉を受けて、碧眼の男が小さく頷いた。何か懐かしげに、それでいて退けるように。店先で暖簾が揺れて振り返る。夜風だろうか。表の煉瓦通りを外套姿の男が横切っていく。


「ありがとう。これで少しは私の道行きも楽になるわ。それに、牛鍋も美味しかった」
 牛の一枚を食べ終えたところで少女は口を拭った。必要ないと首を振る男の手の脇に、きっかり一人分の代金を何食わぬ顔で沿わせた。
「また縁があればご一緒しましょう。ところで」
 残りの肉を箸で摘みながら、ふいに背後の男を振り返る。
「そっちの旦那さんは、肉はお嫌いですか」
 ついにその付き人が声を発するのを聞くことはなかった。時代に沿って散切りにした黒髪の男だ。異国の血を持つ男にはさして区別がつかなかったが、おそらく辺りに居る肥えた客共よりは一回りは若いだろう。
「違うの。彼は、私の召使だから。食事を一緒にとることはないわ」
「ほう。御財閥に仕えるのも一苦労だ。私には到底出来そうもない」
 召使よりもう一回りは幼いだろう少女の言葉は、まるで似合うこともなく落ち着いていた。どれもこれも最初からだ。言葉と、顔つきと、態度。どれもまるで年齢や外見に相応しくなく、その不釣合いこそが二人の均衡を保っている。少なくとも男にはそう感じられた。
 まるで、本当の自分は別の場所にいるかのように。
 まるで、誰かの器を拝借して振舞っているかのように。
 その疑いを確信付けるように、大人びた微笑でもって少女が会釈する。

「それでは、また機会があれば。御機嫌よう、芙蓉(フヨウ)
「お元気で――って、どうして私の名前を?」

 目を見開く金髪碧眼の男。
 珊瑚色の娘は、終ぞ優雅に微笑んだだけだった。