目を覆うほどに視界が白い。

 視界の採光処理が追いつかなかった。幾度かピントとシャッターを作動させて、標準のホワイトバランスに設定した。それでも視界の白さは変わらない。やがて上半分は薄い青色であり、足元が毛糸のように柔らかな銀白であることを知った。類似した二色刷りの世界。それ以外は何も見当たらない。

「わぁ、驚いた」
 先にドアを潜っていた主人が、のんびりとした驚愕を示した。人間の眼は優秀なため、すぐ脇で携帯端末が視界確保に奮闘していたことなど知る由もない。颯爽と綿毛のような大地を踏み歩き、無限の地平線をぐるりと見渡す。
「ここは…空の上ね」
 彼の主人――安里が嘆息する。その息は白いが、身体の表皮から寒さを感じることはなかった。強く吹き付ける風も同様だ。
 彼女の言ったように、正しくはここは地上ではない。ゆえに足元は『大地』ではなく、遥か向こうは『地平線』ですらなかった。

「地上から打って変わって空の上なんて。落ちないように気をつけてね、栞」
 主人が手を伸べながら、笑う。彼はその手を取らなかった。代わりに遠い宙の境界を振り向く。先刻まで居たはずの、ある学校の屋上に繋がっていたはずの灰色の扉は、既に影も形もない。確かに扉の閉まる気配を感じたのに、待っていたのは周りと同じ青と白のパノラマだった。
 これには少し、栞が動揺を見せた。と言っても、表情に出した訳ではなかったが。この航海は何度経験しても慣れないものだ。唐突に紛れ込んだ未知の世界の中で、主人の安全が果たして確保できるのか、黙したまま観測回路を逡巡させる。それを察して、当の安里は微笑を返した。
「神経質ね」
「用心深いと言うのです」
 至極真剣な表情で、携帯端末が訂正する。
 かちゃり、安里の手の上で銀色の鍵が跳ねる。一時の役割を終えたそれは、再び何もなかったかのようにただの玩具へと姿を収めている。まるで飾り棚の鍵のような。どんな扉にもぴたりと合わさるその細工は、次の出番が来るまで主人の懐に居場所を拵えるのである。

「鍵と扉が共鳴するのは一分間だけ」
 疑り深い栞の視線へと、彼女は何度だって丁寧に補足する。
「それを逃せば私達は機会を待たなければならない。チャンスは一時間毎に一度ずつ。けれど、目的の場所があるのならそれは一日に一度きりに狭まる。つまり、彼女が見つからなければ見つからないほど、世界を渡れば渡るほど、次の世界に遷るチャンスは限られてくる。他に何か確認したいことは?」
「今のところはありません」
「そう? じゃあ、行きましょうか。貴方の気が変わる前に」
 肩を竦め、相変わらずにこにことパートナーの杞憂を眺める。旅はそれほど平和ではないはずなのに、安里の表情は穏やかなものだ。最も、大体の表情を飄々と笑顔で隠してしまう主人ではあるが。
 そう、何度経験しても慣れない。この『鍵と扉を使った移動』を始めて随分経ったと言ってもだ。クリスと自称する少年から鍵を借り、多くの扉を潜って来た。その度に彼女の携帯端末はレーダーをぎりぎりと張り巡らし、せめて何が起きても即座に対応できるように備えている。


 事の発端は、遡ること年の末。
 携帯端末の主人・安里は、自分の分身であるアサトと出掛ける約束があった。しかし肝心のアサトは待ち合わせに現れず、それどころか彼女の部屋からはその消息が忽然と消えていた。
 生活の影、行き先、どれも残すこともなく、まるで誰かが綿密に隠したかのように。そこにただ、安里へのメッセージと壊れた時計を残して。
 そんな少女の行く先を求め、二人は多くの扉を渡ってきた。多くの時間をかけてきた。扉の向こうに待つ多くの世界。海星の世界、曼珠沙華の世界、猫の世界。それはどれも、安里の取り纏めた世界だった。
 空間を、時には時間さえ渡り、先刻のように観測地点より昔の時間軸へ辿り着いてしまうこともあった。だから実際には元の現実でどれほどの歳月が経っているのか、知る術もないのだけれど。

 依然として固い表情の相方を引っ張って、安里は先へと進む。目的地はさほど遠くないらしい。瞬間的にそこに流れる時間を捕捉する腕時計も見ず、足取りもさほど急がせないまま、目印になるはずの『何か』を彼女は探しているのだった。

「この世界の1歩が、吉と出るか凶と出るか」

 北に向けて歩を進める二人の視界に、いつしか僅かに盛り上がった雲の造詣が映り出した。