「少し楽になりました」

 ふう、と大きく息を吐き出しながら、リリーが顔を上げる。片隅に置かれたミネラルウォーターは随分常温に近付き、表面の結露が代わりに天板を塗らした。
「ソーマさんが壁になってくれたおかげです」
 バレていたのか、と心中で困惑しつつ、自然と笑う彼女に頑なに首を振った。
 彼方此方から届くであろう思考の波を、最も近い場所に立つことで掻き消す。それがわずかな時間の慰めにしかならないとしても、せめて彼女が落ち着きを取り戻すまで、そう思った。

「俺は別に」
「貴方は優しいから」
 また、穏やな表情を保って彼女が言う。

「何も変わらない。施設で一緒だった頃から、ずっと」
 過ぎるのは幼い自分達。研究対象だった俺達の思い出など、決して憶えていたいものばかりではない。けれど、この笑顔だけは今も昔も変わりはしなかった。忘れられない。これからも。そして、変わって欲しくないと静かに願っている。
 刹那、視線が合う。もう怯えた色は身を潜めていた。これなら大丈夫かもしれない。不確かな未来だとしても必ず取り戻す。あの『少女』と共に。

「ありがとうございました。食い止めましょうね、絶対」
 奇しくも全ての日常が、帰ってきたわけではなかったけれど。


 一ヶ月か、一年か。
 あれから、どれほどの月日が経っただろう。


「顔色が悪いな」


 前を行く彼女に声をかけると、びくりと肩を震わせて振り向いた。

「なんだ…ソーマさんか」
 にへらと笑い誤魔化す様子に二重に溜息を吐きながら、わざわざ戻ってくるその浅緑色を待った。

「また寝てないんじゃないのか」
「そんなことないです。毎日ぐっすりです」
 自信たっぷりに両方の拳を握り上げる。確かに目の下に隈は見当たらないが、ここ数日元気が無いように思えたのも事実だった。先日『あいつ』が生きていると報告があったのに、こいつは喜ぶどころか暗い顔のほうが多い気がする。浮き足立つ支部内で、その感情が浮き出てしまうのも無理は無い。
 眉根を顰める、その数瞬前に、まるで察知したかのようにリリーが笑顔を浮かべた。
「本当だな」
「本当です。大丈夫ですよ」
 部下の不安を振り払うための笑顔。これじゃ、どっちが心配をかけているのか分からない。束ねた赤髪を揺らして、まだまだ頼り甲斐のない上官が胸を張る。
「それに、リーダーだから私が頑張らないと。明日のミッションもよろしくお願いしますね」
 ぱたぱたとカーペットの上を急ぐ。彼女の部屋のドアが閉まったのを聞いて、俺自身も隣の部屋へと戻った。

 何の予感もしなかったと言えば嘘になる。
 けれどその漠然とした感覚はただの違和感に落ち着き、些細な表情の変化の意味さえ捉えることは出来なかった。
 或いは、彼女のような能力を持っていれば。
 いや、俺がほんの少しでも常人並みの機微を知っていれば。


 朝が来るのは一瞬だった。彼女の姿が見えないのに気付いたのはブリーフィング開始時刻の間近だった。
 気付くのが遅かったのだ。
 知っていたはずなのに。世の中には、本当に変わらないものもあるのだということを。
 そしてその中に、レインリリーの性格の一部が含まれるということを。


「リリーさんが…第一部隊のリーダーが単独で交戦中…!?」

 オペレーターが驚愕の眼差しでモニターを見詰めている。
 不死の荒神と、その傍に寄り添うように記された生体反応。切り替わったカメラに低画質に映る、見覚えある赤髪の横顔。

『リーダーだから私が頑張らないと』

「あの大馬鹿野郎…!」

 理解が脳に到達した瞬間、何を思うよりまず、そう叫んでいた。それから思い至らなかった自分の未熟さに腹を立てた。
 全く、どうしてうちの部隊のリーダーは軒並み無茶をするのか。
 どうして何もかも自分で背負おうとしてしまうのか。

 追いかけていって、真っ先に怒鳴ってやる。
 そうでもしなければ、一人で抱えさせてしまった罪を拭うことは出来そうにない。


 そうしてまた新たな結末を、俺達は迎える。

END.